【諸説ありシリーズ】テッテレー!ドッキリ大成功!橋かと思った?~徳川家康伝説~

徳川家康伝説

この「諸説あり」シリーズ3回目にしてすでにネタ切れ息切れ感満載でお送りします。
こんにちは、某(ぼう)です。

はじめましての方はぜひ前回の記事もお楽しみください。

【諸説ありシリーズ】
小豆餅と銭取ターボババァのお話
まじ家康ハンパないら!紋はお手軽お礼術なんだ紋

これ書いてて思いだしたけど、前回は大迫ネタだったんですよねー。
時期ネタは旬が過ぎてから読み返すとほんと寒々しい…

ま、それはさておき。
ついに編集長から「そろそろ1本あげろよ」的な連絡が来てしまいまして、ほんと申し訳ないって思ってたはずです。(他人事)

さて、乏しいネタの引き出しからお送りする今回のお話は、浜松市中区にあります「布橋」という地名について。
今回も徳川家康が三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)で武田信玄に敗走している途中のお話ですよ。
いやどんだけ敗走中に逸話残してんだよって。

「布橋」の由来

三方ヶ原の戦いで敗走していた徳川軍。
犀ヶ崖(さいががけ)に白い布を張って橋(足場)があると見せかけ、徳川軍の夜襲にパニックになった武田軍が何人も崖に落ち、一矢報いたことから。

浜松は温暖で滅多に雪は降らないのですが、この時は雪だったようで、白い布は雪に紛れて余計にわかりづらかったようですね。
崖の上から徳川軍が「ドッキリ☆大成功」と書いたプラカードもって「テッテレー!」とかやってたら武田軍の怒りは倍増してたと思いますので、この時代に「テッテレー!」がなくてよかったな、と思います。

犀ヶ崖の亡霊

ちなみに現在の犀ヶ崖は深さが約13m程だそうですが、当時は東西約2km、幅約50m、両岸は絶壁で深さ40m(「浜松市史 ニ」より)のえげつない崖オブ崖だったようで、そんな崖から落ちた武田軍の兵士がどうなったか、というと。

亡霊になって化けて出てきました。

そんな亡霊の仕業で疫病の流行やイナゴ等の虫害が発生し、農作物に大ダメージ!

やっべぇ…亡霊こえぇ…

レッツダンシン!!

そのため、家康は宗円僧侶に命じて犀ヶ崖のほとりで、亡霊供養のため大念仏を行わせたところ、亡霊も疫病もイナゴもすっかりいなくなったとか。

すっげぇ…念仏つえぇ…

それが浜松市の無形民俗文化財に指定されている「遠州大念仏」の起こりだと言われています。
遠州大念仏は太鼓を使った演舞?というのかな。
百聞は一見にしかず、ですので、7月にはぜひ大念仏を!とても見応えがありますよ!

資料館もあるよ

また、浜松市中区鹿谷町には犀ヶ崖資料館がありますので、興味を持った方は訪れてみるのもオススメです。

 

 

とまぁ、布橋周辺には様々なお話がございますが、今回のお話の肝となる「布の橋」を作るために長さのある布を急に用意することになったものの、物資が不足していて最終的に自分たちのふんどしを差し出すしかない…と、徳川の兵士たちがしばらくフルチンだった説。

※諸説あり!!

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